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ブラック会計事務所勤めで人生詰んだ私があなたのヒマをつぶすブログ

度の過ぎた絶望こそが、むしろ心を浄化する「リリイ・シュシュのすべて」

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岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」は観たことがあるだろうか? あるだろう? アレって最高に最悪だよね(※当エントリの内容はほとんど『今作を知っている方』に向けて書かれています)。

岩井俊二本人が書いている小説版「リリイ・シュシュ」の方は読んだことがあるだろうか? 映画と小説で相互補完し合うようにできていて、どちらにも「言っていないこと」や「書かれていないこと」や「説明されていないモノ」が存在している。

 

内容も一部の展開が映画と小説で異なる。映画で自殺するのは津田詩織(蒼井優)だが、小説では久野陽子(伊藤歩)が自殺する。また、星野(忍成修吾)がぶっ壊れる理由の考察や説が未だに熱をもって語られることがあるが、その明確にして絶対的な答えはここでも提示されない。

原作では久野が死ぬのに、映画にするときに岩井俊二が「久野(伊藤歩)は強く生きていくように見える、死なない」と感じ「津田(蒼井優)は踏み潰されても死なないように見えて、いきなり何するか分からない怖さがある」と思うようになったという。役者に引っ張られるカタチで、なんと原作を捻じ曲げたのが映画ストーリーの真相だそうな。

 

小説版「リリイ・シュシュ」は、なんとチャットの会話文章だけで構成されている。映画版でリリイの音楽をBGMに、カタカタ表示されて観る者の耳と目と脳髄をシゲキしまくったアレだけで小説が構成されている。……これはメッチャ読みやすい! ほかの小説とちがって左から右へと読みすすみ、すべて横書きでチャットの会話文だけで表現されちゃうわけだ。縦書きで「本」のカタチになった物体があまり好きじゃないあなたや、「なろう」系サイトが読書の主戦場になっているあなたにも、こいつはあっという間に手と目になじむ怪物となるだろう(もちろんコレは異世界転生しないけどね)。

 

映画版「リリイ・シュシュ」にしか触れたことがないなら、これを読まないのはもったいない。映画にあったリリイの神がかった音楽と、岩井監督のエグい美しさの映像がない点において、たしかに小説は劣るのかもしれない。だが、裸になって文字だけにされたこの物語を見ていると「削って削ってシンプルになった」痛さ増し増しの生々しい悲鳴が「見えて」くる。映像で観た「リリイ・シュシュのすべて」よりもっと乾いて、もっと淡白で、もっと冷淡で、もっと救いがないストーリーと世界がこの手のなかに顕在しはじめるのだ。

映画を観たあなたなら分かるでしょう? これって人生最高レベルのサイアクだよね(もう褒め言葉ですな)。

 

しつこいけど、繰り返そう。もし映画だけで「リリイ・シュシュのすべて」が終わっている人は、コレも読まなきゃソンしてますぞ。なんたってこの小説、「映画のその後」から物語が始まるんですよ。個人的にはソレはあまり知りたくなかった、というホンネもあるが。

小説だけ読んで映画観てない……なんて強者はいないと思うが、そういう人と、映画自体観たことがない、なんてあなた、おめでとう。いますぐ映画「リリイ・シュシュのすべて」をチェックしよう。

今作で映画デビューとなった市原隼人の『男臭さ0』の、なよなよした女の子みたいなキレイなお顔と繊細な表情を堪能できますぞ。ブレイク前の蒼井優忍成修吾伊藤歩、神秘のカリスマ歌姫「リリイ・シュシュ」に扮するこれまたブレイク前のSalyuの歌声が奇跡的な具合にマッチ。

岩井監督の残酷なまでの“人でなし映像美”と、リリイ(Salyu)の歌声による2重の破壊力たるや「混ぜるなキケン」を地で行く憂鬱力になっております。もはや暴力よりも暴力をしている欝であります。

最後になった今さら映画(小説も)の内容を雑に紹介すると、中学生のいじめと、援助交際と自殺と救いと、救われないものたちと、救えないものたち、といったステキなストーリーがあなたに微笑む物語に仕上がっているのがコイツです。

 

 

リリイ・シュシュのすべて」は、私の人生で出会った映画や小説の「欝物語」の1位タイに君臨している。もう1つは「秒速5センチ」で堕ちる新海さんのアレな(『秒速』も映画しか観ていないなら小説読んだほうがいい。間違いなく)。

素数たちの孤独」という小説の感想で書いた「自分の中の何かを殺す(亡くす)」ために触れる芸術(文化)は必要なのだと改めて感じる。だから私は「リリイ・シュシュのすべて」を1、2年に1回観てしまう。憂鬱に浸りたいから。もっともっと堕ちたいから。

さあ、めちゃくちゃ堕ちたい気分の週末に、まずはこの映画を観よう。絶対サイアクだから。映画を気に入ったら、Salyuが「リリイ・シュシュ」名義でリリースしたアルバムを流しながらこの小説を読もう。そうしたら、きっとまた何年後かに欝になりたくて、この物語に向かって帰ってくるだろう。その時のあなたも「飛べない人間」のひとりだったならね。

 

  

ヘルマン・ヘッセが「春の嵐」を発表したのは、彼が33歳のときだという事実。自己嫌悪に陥るほどの絶望的なすごさ

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人生のピークはどこにあるのだろう?

そんなことを訊いてくる小説たちに触れるまで、考えたことはなかった疑問がコレ。ほんとうはいつなのだろう? 多くの人にとっては青春時代がそれに該当するのだろうか。あるいは歳を重ねたあとの、おだやかに人生を振り返る老年時代こそがピークなのだろうか。この問いかけは、少しだけ意味をすり替えた別の表情でこちらを見つめてくることに気づいた。

「あなたの人生における『幸せ』ってなんですか?」そんな顔をしてこっちを見てくる。できるなら、視線をはずしたい。それが分かってりゃ、誰だってとっくに幸せなんだから。

 

 【将来幸せになれるヤツは、今日すでに幸せなヤツだけ】

ヘルマン・ヘッセとこの「春の嵐」は、もう整理と私のアタマそのものが追いつかない数とスピードをもって「相対するシアワセ」やその美学と「破壊と再生と慰めと諦め」を投げかけ続けてくる。まずは冒頭の疑問だ。人生のピークと、その人間がどの瞬間のために生きているのか(死んでいくのか)について、この小説に考えるきっかけをもらう。

 

春の嵐」では主人公が一時の恋から、酔ったように危険な遊びをして、身体に障害を負ってしまう。好きな女の子の前でカッコつけて、人生を変えるレベルのケガをする。彼が学生(青春時代の入り口で)の頃の失敗だ。やがて通っていた音楽学校で大成することもなく、そこを卒業した彼に残っていたのは、ちょっとした音楽の才能と障害と不安と霞んだ未来だっただろう。

それでも、落ちこぼれである自分の作り出す音楽を賞賛する友と出会う。それこそが、すでに劇場でスターとなっていたバリトン歌手「ハインリヒ・ムオト」だ。

 

偶然の縁から、更には美しき「ゲルトルート」なる女性と知り合い、主人公と彼女は心の奥底で惹かれ合うほどに共鳴をはじめる。ふたりは主人公が生んだオペラを完成させるための、静かで上品な空気と芸術に満たされた、まさに最良の日々を送る。主人公はオペラの完成に欠かせない絶対的な主役として、その役を友であるハインリヒに託す。こうして主人公とゲルトルートがふたりだけで創って育てた世界に、はじめて「他人」が入ることになる。

この先はもう言わずとも御存知だろう。このあと主人公は、自分をスターダムまで引っ張ってくれた友(ハインリヒ)に愛する女(ゲルトルート)を奪われる。

 

そもそも、この主人公とハインリヒの人格と思考が真逆に近い場所に位置している。ハインリヒという男は圧倒的な危険性と魅力を持ち、舞台で絶対的な主役になれる芸術上のマスターピースなのだが、大酒を飲んで女を殴る自堕落でもある。自堕落な男という生物はどうしてか、とんでもなく魅力的でもある。彼は天才だが、この世の天才のほとんどがそうであるように「自分をぶっ壊してダメにする孤独な人間」としての一面を持っている。そんなハインリヒに主人公の「心の恋人」であるゲルトルートが惹かれるのは必然だったのだろうか。

 

ハインリヒは命を燃やしつくす熾烈さで、若者としての青春時代の終わりをむかえるように生きている。どう見ても、今日の幸せのために心と魂をガソリンにしてしまう男が「この先、年寄りになったときこそがいちばん幸せにちがいない」と考えているフシがある。

主人公はと言えば、ゲルトルートという人生における最大幸福を失った悲しみから自殺を考えるが、わけあって未遂に終わる。

だが、彼の人生の中には父や年長者との静かな会話や、思想と哲学の交流をおだやかな時間とともに重ねる瞬間がきちんとあった。ここにヘルマン・ヘッセの小説の真髄が感じられると思う。「魂と魂を互いに見せ合う」ような瞬間を、ヘッセはいつも優しくて美しい空間と言葉で表現する。

 

それらの「幸せへの心の旅」から、主人公もぼんやりとそのイメージをつかむ。彼は考える。誰かのために生きるようになったら、そのときがいちばん幸せなのだ、と。ふたりの結論は同じなのだ。人生のピークはまだまだ先にあるなんて考えて、しんどいばかりの今日を静かな諦観といっしょに生きているようだ。

口にする言葉では、希望では、誰だってそうだ。まだ先にピークが待っていてくれることを願う。でも、そのために今日をどうやって使うか(死んでいくか)があまりに違うんだ。

 

 

私はあることを考える。やがてオペラの完成と成功を迎えたとき、そのときこそ主人公は死を遂げたのではないか。自分とゲルトルートだけが創りあげたオペラにハインリヒが加わり、ついには人々の群れへと渡り、やがて自分のオペラがひとり歩きをはじめる。もう別の作品へ変わったようにさえ感じさせる。このときから主人公も明らかに変わった。いちど死んだのだろう、かつて彼の父がそうであったように、おだやかですばらしい諦めにつつまれた、誰かのための人生へシフトしている。

私の目にはどう見ても、いちど死んだあとの主人公の方が幸せに映るのだ。ここで疑問ばかりを提示するかたちとなるが、「春の嵐」から更なる問いかけが見えてきた。

 

ひとはいったい、その人生の中で何度死ぬのだろう?

それによって何度救われるのだろう?

その疑問への自分なりの回答を持ち合わせているひとは、もう何度か「死んで」いるのかもしれない。

 

ヘルマン・ヘッセがいつも伝えようとしていたこと】

 

ヘッセの小説にはあるていど共通点がある。そのうちのひとつが、彼の小説は「失敗者を描く」ということになるだろう。そこから新しい未来をみつけることができた者、ついには失敗して最悪の結末をむかえてしまう者、どれもこれも「絶望スタート」の物語たちだ。

 

けれど、主人公たちはどういう結末になろうとも、人生における価値や意味を何かしら知っている。つまりそれはヘルマン・ヘッセ自身が伝えようとする不変的な幸せに他ならない。彼が小説を通して伝えてくる、人生へ意味と価値と慰めをあたえてくれるものは、いつだって「音楽(芸術)」と「自然」と「家族」だった。

 

その3つにこそ、自分が生きる意味とヒントなんかを見つけられるかもしれない。言葉を変えれば「自分の命を使う」相手先として最高の候補になってくれるのだろう。

誰にとっても相性のよい小説家がいるだろうと思う。もしヘルマン・ヘッセを試してみたひとの、その枠に彼がバチンとはまるようなら、その人の人生に刺さるほどの優しさに包まれた、ヘッセの名著たちが待っていることを約束できる。

 

音楽と自然と家族へ、ひとの幸せの意味を見つめつづけたヘルマン・ヘッセこそが、永遠に青春を生きた人間のひとりなんだ。

 

ホラー小説の要素を全部ぶっこんだ「ナサニエル」を勧める

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ホラー小説における、加点要素の「全部入り」を果たしているような小説がコレ「ナサニエル」。ジョン・ソールは「暗い森の少女」が一番読まれているのだろうか?(「暗い森の少女」は怖くも面白くも感じなかった) 私は「ナサニエル」がいちばん好きになった。

 

まずは部落(村でも可)の閉鎖的で、あまりに静かな違和感と狂気を匂わせ、そのあとに続くのは、土地に根ざした幽霊話と家の中に出るタイプの「もっとリアルで身近な幽霊」となる。そこにホラーの必需品「子供」を絡めて殺人や陰謀をフラッシュバックし、田舎社会の闇を浮き上がらせる。最終的には目に見える銃器の恐怖や、生きた人間そのものの怖さ、永遠に確定できないような謎や悲哀を残して、素晴らしいまでの後味の悪さで物語を締めくくる。

 

ナサニエル」はモダンホラーともサイコホラーとも評されるが、どちらとも言えるだろうし、「圧倒的な怖さ」そのものを読書に求めるならば、手にするべきは違う本になるだろう。けれどこの小説単体を切り取ると、上記の”ホラー成分”の「全部入り」トッピングを味わう極上の体験ができる。

 

ストーリーとしては、夫を亡くした妻が、妊娠した身体で夫の故郷へと息子を連れて行く。帰省などいちどもしなかった夫が、なぜか妻に一言もいわずに帰省し、そこで事故死したからだ。夫の家族たちと田舎社会に馴染めないまま、妻はこの地で生きることを決める(決めさせられる)。すぐに「2度とここから出られなくなる」という声や「パパは事故死じゃなくて、アイツらに殺されたんだ」という声を聞くことになる。そしてこの土地に語られる幽霊話と「ナサニエル」なる少年の話が出てくる。

 

読者は数十ページほど読んで、いちど人物を整理しようと「登場人物紹介」を確認するだろうか。そこに題名となる「ナサニエル」の名前がないことに気付くだろうか。本を開くよりも早く「ある予想」を立てる猛者もいるだろう。私はこの段階で気付いた。なるほど、この小説には、出てくるけど出てこない存在か、出てこないけど出てくる存在が、あるいはその両方がいるわけだ。ちょうどそう悟らされたあたりで「ナサニエル」というワードや幽霊話が、作中の明度と温度を一気に下げる。夫を亡くした作中の妻のように、読者の前にもよく分からない田舎が眼前に現れ、その場所がどんどん暗く冷たく息苦しくなっていく。それと共に浮上する”極めて物理的で直接的な恐怖や痛み”も加わり、静かな片田舎だけが描かれる小説がある意味めくるめくエンターテイメントの色合いさえ提示しはじめる。凄まじい恐怖や凄惨な流血だけを求める読書として手に取らないならば、この「ナサニエル」は極めて優秀なホラー小説として読者に応えてくれるだろう。

 

田舎ならではの不気味アイテム「干草用フォーク」での殺人など、ちょっとした小道具が盛り上げる世界観も一読の価値アリ(私は「バイオハザード4」の狂った村を連想し続けた)。微塵も期待していなかった、ある愛に関しても言及され、まさかのラブストーリーまで明かされる。非情に驚いた。これはほとんどの読者が予想も邪推もしないのではないだろうか。もはや総合エンターテイメントとさえ言える「全部ぶっこみホラー小説」の「ナサニエル」をお勧めする。恐らく絶版しているが、ネットならば安価で入手可能。ただし、先にも触れたが読後の後味は悪いことも覚えておいて良いだろう。