ネアンデルタールとホモサピエンスの殴り合い……にはならない「後継者たち」
ふと思えば「蠅の王」でしかウィリアム・ゴールディングを読んでいないが、
それは果たしてここまで描写に頭が追いつかない様なモノだったのか……記憶にない。
「蠅の王」はしつこいまでのリアリティのある情景描写で(美しさももちろんあった)、無人島で生きていく少年たちのあまりに自然な行動の先にある、あまりに不自然な光景だけを見せつけられたパラドックスを覚えている。また読まねばなるまい。
今回は「後継者たち」。背表紙の紹介文から期待したのはズバリ、
ネアンデルタール人とホモサピエンスの殴り合い。
……だがしかしその希望は叶わなかった。
どうもこれはもう少し高尚な小説のようだ。
ここでまず描かれるのは、これまで地上で生きてきたネアンデルタール人たちの生き残り。
争いはせず、統率者がはっきりとし、各々の仕事をそつなくこなす。不条理に不満を抱いたりもしない。
ポイントは、“何者かに対する憎しみや暴力(生物を殺す行為)が描かれていない”ところ。
そこに現れるのが新人類・ホモサピエンスである。
彼らはネアンデルタール人にはない物を持つ。
何より技術(生物を殺すための武器)を持っている。
更には現代に生きている我々と同じように、「統率者」ではなく「権力者」を持ち、
さらにその「権力」を奪おうとするNO2が居て、たがいに衝突する事もあれば、驚異的な知恵さえも持ち合わせている生物だ。
舐めてかかっちゃいけない。コイツらには、ちょっと頭の悪い現代人くらいの賢さがある。
意外なプロットなのだが、ネアンデルタール人が一人、また一人と闇に消えていくまさかの展開が続く。なんとこいつらは正面から衝突しないのだ。
てっきり原人同士が殴り合うと想像していたから、この不気味なプロット運びに驚く。
そしてついにホモサピエンスと邂逅する、ネアンデルタールの主人公のロクとフェイの行動がある意味凄まじい。
「仲間」を殺され、さらわれているにも関わらず、彼らが新人類ホモサピエンスに対する態度は全く邪な物の混じらない純粋で愚かな真っ直ぐさで描かれる。
自分たちに飛んできた矢を「贈り物」と思ってしまったり、さらわれた仲間のネアンデルタールの子供への食べ物だ、と叫びながらホモサピエンスに肉を投げたり、自分たちを殺そうと探しているホモサピエンスに向かって、さらわれた自分たちの仲間がどこに居るのか大声で呼びかけて自らの居場所を知らせたりする。
全くもって愚かな生物にしか見えない。事実としてそうなのだろう。
圧倒的な頭脳と技術力を目の当たりにしても、彼らはそれが「自分たちに振りかざされる脅威(凶器)」だとは考えていない。そう感じるだけの頭脳が無い。
今この瞬間に我々の前に宇宙人が降り注いできて、相手が友好的な態度を見せても、まだ我々の方が防衛の為の疑いの目を向けるだろうと思う。
彼らは純粋なのだ。解説曰く、それは「原罪」を背負う前の人間として描かれている。
他方勝利者のホモサピエンスは「文明」を踏んだ人類として描かれ、その代償が待ち受けている未来へと向かうような形で、雲行きの怪しい幕をひかれる。
ウィリアム・ゴールディングが描こうとしたのは「原罪」と「無垢(イノセンス)」だそうだ。
今の我々から見れば、時にそのイノセンスは愚かな行為にしか映らないが、どうしてなのだろう? 最後には滅んでしまう、「醜い敗者」として描かれる主人公たちネアンデルタール人たちが美しいものに見えてしまう。
それこそがウィリアム・ゴールディングが描こうとした「人間の心に密かに残る原初衝動」の、記憶を揺さぶられる文学体験なのかもしれない。
言葉らしい言葉を持たないネアンデルタールを文字に起こして小説にして、「原罪」をテーマにその慟哭をもって読み手の「心の中にある何か」を突き動かす。
極めて実験的で(解説にて“無謀”と表現される挑戦だった)、誇り高ささえも感じさせる一冊に思う。
だがしかし自分の読解力の足らなさを痛感する読書にも違いなかった。この小説との出会いを幸せに思うけれど、自分の読書レベルが追いつかなかった諸々の瞬間が、けっこう口惜しいのもホンネである。
「あなた」におすすめ
・ウィリアム・ゴールディングが気になる(初読は「蠅の王」を推奨)
・ネアンデルタール人の小説なんて読んだ事がない(私もそうだった)
・想像が追いつかない難解な描写を軽々読み進む自信がある
・人間の「原罪」について一考がある