すべての無意味へ捧ぐ 「タタール人の砂漠」
こいつらは、なんと意味のない人生を歩んだのだろう。
なんとしょうもない仕事をしているのだろう。
こいつら、何故こんなにも我々に似ているのだろう。
どうして、我々の人生はこんなに無意味なのだろう。
さあ「タタール人の砂漠」で、ドロドロに腐ってしまった心を乾かそう。
人生にろくな意味なんてないのだから、無意味の中にある意味を見出そうではないか。
作中の人々の仕事は、砦に配備され、国境を守るために砂漠を見つめること。それだけ。
油断しているとタタール人が国境を攻めて来るかもしれないからだ。でも、何年たっても、何十年たっても、タタール人は攻めて来ない。
いったいどんな意味があると言うのだ。
こいつらはやがて、この砦にも自分の仕事にも人生にも意味なんて無いことに気付く。
己を慰め、誤魔化し、重大な事に気付かないフリをして、人生最良の日と、その瞬間なんてもっと先の方で自分を待っていると考えだす。下らない「やりがい」に心を撫ぜられ、“妥協”の色をした“諦め”と“怠慢”に染まる。
でもほんとうは知っている。そのギャンブルにまず勝ち目なんてないことを。
ベットした命の上を通り過ぎた時間と、自分が手に出来なかったアレとコレと。自分が使い捨てた自分の命と。それでも“意味”や“証”が欲しいのだと喚く心と。
人生のほとんど全てを捧げる「お仕事」に人生を踏み潰される。
あまりにも既視感のある感情と弱さに瞳孔が開く、開く。
なんだ、これは私たちの話じゃないか。
「この小説の中の私たち」は、何十年もこの「仕事」の価値に黒い疑問を抱き、いつの日か若い新入社員に言うのだ。
「お前はキャリアだけ積んでさっさと他所へ逃げろ。そのうちここから逃げ出せなくなってしまう。おれたちのように」と。
それに対して新入社員はこう考える
「こんなどうしようもない職場にいつまでも留まるわけがないだろう」と。
かくしてその新入社員は無事に墓場入りを果たし、何十年もたって次の新入社員を迎える。
自分の空を通り過ぎて行った、自分が殺した年月を感じながら。
どうしようもない仕事に流され、自分の替わりなんて無尽蔵にいる事実など考えぬよう、残り寿命を毎日ゆるやかに自殺してゆく。
甘ったるくて美味しい自己犠牲を投影した、ゆがんだヒロイズムを自分の共演者にしながら。
どうやら作者のブッツァーティはカフカの再来と言われていたようだ。意識して読んでしまったが、数ページ読んだだけで、確かに同じ感覚を感じた。
カフカのように温かくて無関心で冷たくて脆くて優しいのだ。
同じだけの価値もあるのではないか? 場所によっては、たった一文で本一冊分の価値があるようなモノさえそこいらに散らかっている。
幻想文学とカテゴライズされる分野なのだろうか?
こういうのは私の理想にそのまんまリンクする。
文章はやわらかくて温かいのだ。そんな優しい言葉たちが、我々が自覚しているようで流されてしまっている問題を滔々と語る。なんと冷酷で、目を逸らしたくなる優しさなのだろうか。
そいつが「結局どこにもたどり着かない」人間であり、「自分が何者なのか」を明確に言いきる存在になれずに時を失うあたりも、妙にカフカ的に感じる。
そう、これは私が最も理想とする小説のカタチ、
「子供にもわかる言葉」で「大人にも解けないような哲学」を提供するタイプの稀有なる小説だったのだ。
ほら、意味なんて無い人生だが、またひとつ良書(そんな優しいレベルではないかも知れない)に出会えたではないか。
今までの読書人生で、ブッツァーティを1度も通らなかった事を信じられない気持ちで読了。
まだまだそう思わせてくれる、私が未読の素晴らしい小説がどれほど眠っている事か。
あなたにおすすめ
・もし未読だという読書家の方がいれば是非
・ブラック企業勤めのあなた(私もそうですな)
・カフカの小説を好んで読む
・分かりやすい言葉で深いテーマを探る小説が好き