「移動祝祭日」 でヘミングウェイが食レポしてる
あのアーネスト・ヘミングウェイが「移動祝祭日」で食レポや街紹介ロケみたいなことをやっている。こんなヘミングウェイ初めて見た(読んだ)気がする。
これはヘミングウェイの修行時代のエピソード群で、若き日の回想を綴った自伝となる。
ヘミングウェイと最初の妻との、パリでの優しくて懐かしくて脆い記憶を綴る。
当時のパリを観光案内し、食レポして、奇人や変人の紹介、素晴らしき人々との交流や、まだ世に出る前の才能人たちと生きた日々を回想する。
私が最も感銘を受けたのが彼の「小説の書き方」をあけっぴろげに語ってしまうところ。
物を書いたことのある人なら、首が折れるくらい頷き倒すような「モノ書きあるある」から、目から鱗がほとばしるような「弱小モノ書きへのヒントとアドバイス」までがふんだんに散りばめられている。
「今日の仕事の出来が良かったのか、もしくは悪かったのかは、それは今日書いたものを明日読み返して初めて分かる」ということを言っている箇所がある。
最近私が毎日のように感じていることだったので驚いた。やっぱりそうですよね。
一日寝かせるだけで自分の中の「会心の一文」は「ゴミ」になっていることがしばしばある。
落ち込むなかれ、逆も然りで「ゴミのような表現」が次の日には「絶対に外すことの出来ない重要なファクター」になっていることもあるのだから。何かを書く方にはお馴染みの感覚だろう。
そういった「感覚だけで認識していた理解領域」のお話を、ヘミングウェイが整然とした言葉で分かり易く解説してくれる。これは貴重な読書体験だった。
他に気になったのはスコット・フィッツジェラルドとの思い出の日々だ。
フィッツジェラルドが「グレート・ギャツビー」を完成させる前から、とうとう彼がその妻の存在によって没落するまでが明かされている。
私はフィッツジェラルドの人格や人間性を調べたことがなかったので、かなり驚いた。
もっとムダのない、完璧主義の潔癖症のイメージを抱いていた(グレート・ギャツビーを1読しかしていない詳しくない人間のそれだ)。
単純な資料としても相当に貴重だろう。
他にもドストエフスキーやトルストイをばっさりと評論する会話まである。
自分の小説(自伝)でドストエフスキーを真正面から眺めて何かを語った文章はなかなか見ない(太宰の「人間失格」で一度見た覚えだけがある)。
ヘミングウェイの対ドストエフスキー論は、これだけで一読の価値があるように思う。
なかよくイチャイチャしっぱなしの最初の奥さんとの会話は温かくて優しい(カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」の夫婦の会話にそっくりですぞ)。
やがては呼吸をするようにゆっくり、なんとなく最初の妻との「お別れ」の空気も漂い、どこか儚い空気もあり、単純な文学の秤にかけても文句なしだろう。
ぶっちゃけこれまで読んだヘミングウェイの小説より、こっちの方が圧倒的に面白かったことを小声で伝える。