ヴィクトール・フランクル「それでも人生にイエスと言う」
いかなる人生も社会の為の「手段」にされてはならない。いかなる人生もそれ自体が「義務」であって、辞めることは許されない。
死んだ方がはるかにマシだと思える体験をした精神科医は語る。ご存知の方ばかりだろうが、著者のヴィクトール・フランクルはナチスの強制収容所にブチ込まれ、極寒の氷の世界で一日一杯のスープだけを命の糧に重労働を3年間続けた。毎日気持ちの良い風呂や、甘いケーキの事を、今日のスープに1切れでもイモが浮かんでいないかな、とそれだけを考えながら。人が人以外の何かみたいに簡単に死ぬ瞬間を。明日はガス室送り(処分)になるかもしれない毎日を。
戦争が終わり、収容所から解放されたその翌年に大学で行われた講義の記録が本書である。何かを強く訴える人の本を幾度と読んだが、優れた主張には共通点がある。それは「被害者」や「告発者」として叫ばない、ということだ。この人もそうだ。「当事者」ではなくて「一人の人間」の姿で社会へ放つ言葉がとにかく刺さる。
私がどうしても覆すことの出来なかった自説と、全く異なるアプローチで、変な形で重なってくる内容が重大な発見になった。ヴィクトール・フランクルの言葉の99%はそのまま素直に人生訓にしたい。例えば、
生きることに意味なんてあるの?
という人類のテーマに対して、私は「意味なんてあるわけがない」と常に考える。これまで意味のあった一生など、歴史の教科書に載る人生くらいしかない。現代社会でも数える程度しか居ないのではないか。あとは代替可能の人生であって、もっと言うとそれ以下で、最初から居なくたって何の問題もないのだ。涙ぐましい支えとして、自分の人生に意味なんてないのだから、それは自分にではなく、自分の周りの人たちに少しでもその意味があれば良い。という考え方を私は抱き続ける。
フランクルのアプローチはもっとキレイで分かり易かった。彼の答えは「お前はそもそも人生を裁く立場にいない」という内容(もっと美しい言葉で教えてくれます)だった。
勘違いしているのだ。人生に意味があるかどうかじゃなくて、我々はそもそも自分の人生に試されていて、それに答える義務がある。私もそうだが、誰しも「人生に期待している」のだ。何か良い事が起こるように。自分が認められるように。もっと良い日が将来に待っていてくれるように。これ、逆なんだ。
自分自身に生きる意味なんてない、自分の周りの人にそれがあると考えることで、己を慰める私の脆弱な保身と変にリンクする。そうだ、人生に期待するのは間違っている。我々はその逆を考えなければいけない。逆に、自分の人生の方は我々に何を期待しているんだ? これを考えなきゃいけないのだろう。
それこそが「意味」や「理由」を求めてもろくな答えなんて誰も持ち合わせていない秘密だ。人生に応える「義務」が誰にもある。その事実だけがある。
でも幸せになりたい。 誰もが思う。このテーマにもフランクルが触れる。
「幸せになりたい」と願う時点でその人は今幸せじゃない。そればかりか「幸せ」を目的にしてしまっている。それに対して、フランクルは真顔でこう言ってくる。「幸せって目的にする物じゃなくて、結果としてついてくる物じゃないんですか?」と疑問をぶつけてくる。なるほど、言われてみればそうだ。
私は「自分が出会った中で、本当に幸せなヤツなんて居やしなかった」から、「どうせみんな不幸なんだから、自分が不幸でも生きてたっていいじゃん」という考えを持っていた。
でも、勝手な解釈ではあるが、我々の唱える言葉は同じ終着点へ向かうように感じたのだ。
自分の人生に期待することをやめて、人生の方が自分に何を期待しているのかを考える。きっと誰の人生もその人の幸せを期待しているだろう。頑張ってそれに応えてみたらどうだろう。幸せがおまけでくっついてくるかもしれない。
そうなのだ、そもそも我々だって幸せになっても良いのだ。生まれながらにチート性能を備えた人生じゃなくても、歴史の教科書に載る人生じゃなくても、痛い思いばかりの人生でも、幸せになったって良いのだ。それ相応の応えかたを人生へできたそのときに。
フランクルの著作「夜と霧」を読んだときの、心が跳ね上がる戦慄をまた感じた。
人生の節目で何度も読む本になるかもしれない。5年後だろうか、10年後だろうか、子供ができたときだろうか、もう治らない病気を患ったときだろうか。
今回は「幸せになっても良いんだよ」と気付かされた。いつか再びこの本を読んだとき(講義を聞いたとき)に「それは今なんだよ」と教えてもらえるような人間になりたい。