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ヘルマン・ヘッセが「春の嵐」を発表したのは、彼が33歳のときだという事実。自己嫌悪に陥るほどの絶望的なすごさ

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人生のピークはどこにあるのだろう?

そんなことを訊いてくる小説たちに触れるまで、考えたことはなかった疑問がコレ。ほんとうはいつなのだろう? 多くの人にとっては青春時代がそれに該当するのだろうか。あるいは歳を重ねたあとの、おだやかに人生を振り返る老年時代こそがピークなのだろうか。この問いかけは、少しだけ意味をすり替えた別の表情でこちらを見つめてくることに気づいた。

「あなたの人生における『幸せ』ってなんですか?」そんな顔をしてこっちを見てくる。できるなら、視線をはずしたい。それが分かってりゃ、誰だってとっくに幸せなんだから。

 

 【将来幸せになれるヤツは、今日すでに幸せなヤツだけ】

ヘルマン・ヘッセとこの「春の嵐」は、もう整理と私のアタマそのものが追いつかない数とスピードをもって「相対するシアワセ」やその美学と「破壊と再生と慰めと諦め」を投げかけ続けてくる。まずは冒頭の疑問だ。人生のピークと、その人間がどの瞬間のために生きているのか(死んでいくのか)について、この小説に考えるきっかけをもらう。

 

春の嵐」では主人公が一時の恋から、酔ったように危険な遊びをして、身体に障害を負ってしまう。好きな女の子の前でカッコつけて、人生を変えるレベルのケガをする。彼が学生(青春時代の入り口で)の頃の失敗だ。やがて通っていた音楽学校で大成することもなく、そこを卒業した彼に残っていたのは、ちょっとした音楽の才能と障害と不安と霞んだ未来だっただろう。

それでも、落ちこぼれである自分の作り出す音楽を賞賛する友と出会う。それこそが、すでに劇場でスターとなっていたバリトン歌手「ハインリヒ・ムオト」だ。

 

偶然の縁から、更には美しき「ゲルトルート」なる女性と知り合い、主人公と彼女は心の奥底で惹かれ合うほどに共鳴をはじめる。ふたりは主人公が生んだオペラを完成させるための、静かで上品な空気と芸術に満たされた、まさに最良の日々を送る。主人公はオペラの完成に欠かせない絶対的な主役として、その役を友であるハインリヒに託す。こうして主人公とゲルトルートがふたりだけで創って育てた世界に、はじめて「他人」が入ることになる。

この先はもう言わずとも御存知だろう。このあと主人公は、自分をスターダムまで引っ張ってくれた友(ハインリヒ)に愛する女(ゲルトルート)を奪われる。

 

そもそも、この主人公とハインリヒの人格と思考が真逆に近い場所に位置している。ハインリヒという男は圧倒的な危険性と魅力を持ち、舞台で絶対的な主役になれる芸術上のマスターピースなのだが、大酒を飲んで女を殴る自堕落でもある。自堕落な男という生物はどうしてか、とんでもなく魅力的でもある。彼は天才だが、この世の天才のほとんどがそうであるように「自分をぶっ壊してダメにする孤独な人間」としての一面を持っている。そんなハインリヒに主人公の「心の恋人」であるゲルトルートが惹かれるのは必然だったのだろうか。

 

ハインリヒは命を燃やしつくす熾烈さで、若者としての青春時代の終わりをむかえるように生きている。どう見ても、今日の幸せのために心と魂をガソリンにしてしまう男が「この先、年寄りになったときこそがいちばん幸せにちがいない」と考えているフシがある。

主人公はと言えば、ゲルトルートという人生における最大幸福を失った悲しみから自殺を考えるが、わけあって未遂に終わる。

だが、彼の人生の中には父や年長者との静かな会話や、思想と哲学の交流をおだやかな時間とともに重ねる瞬間がきちんとあった。ここにヘルマン・ヘッセの小説の真髄が感じられると思う。「魂と魂を互いに見せ合う」ような瞬間を、ヘッセはいつも優しくて美しい空間と言葉で表現する。

 

それらの「幸せへの心の旅」から、主人公もぼんやりとそのイメージをつかむ。彼は考える。誰かのために生きるようになったら、そのときがいちばん幸せなのだ、と。ふたりの結論は同じなのだ。人生のピークはまだまだ先にあるなんて考えて、しんどいばかりの今日を静かな諦観といっしょに生きているようだ。

口にする言葉では、希望では、誰だってそうだ。まだ先にピークが待っていてくれることを願う。でも、そのために今日をどうやって使うか(死んでいくか)があまりに違うんだ。

 

 

私はあることを考える。やがてオペラの完成と成功を迎えたとき、そのときこそ主人公は死を遂げたのではないか。自分とゲルトルートだけが創りあげたオペラにハインリヒが加わり、ついには人々の群れへと渡り、やがて自分のオペラがひとり歩きをはじめる。もう別の作品へ変わったようにさえ感じさせる。このときから主人公も明らかに変わった。いちど死んだのだろう、かつて彼の父がそうであったように、おだやかですばらしい諦めにつつまれた、誰かのための人生へシフトしている。

私の目にはどう見ても、いちど死んだあとの主人公の方が幸せに映るのだ。ここで疑問ばかりを提示するかたちとなるが、「春の嵐」から更なる問いかけが見えてきた。

 

ひとはいったい、その人生の中で何度死ぬのだろう?

それによって何度救われるのだろう?

その疑問への自分なりの回答を持ち合わせているひとは、もう何度か「死んで」いるのかもしれない。

 

ヘルマン・ヘッセがいつも伝えようとしていたこと】

 

ヘッセの小説にはあるていど共通点がある。そのうちのひとつが、彼の小説は「失敗者を描く」ということになるだろう。そこから新しい未来をみつけることができた者、ついには失敗して最悪の結末をむかえてしまう者、どれもこれも「絶望スタート」の物語たちだ。

 

けれど、主人公たちはどういう結末になろうとも、人生における価値や意味を何かしら知っている。つまりそれはヘルマン・ヘッセ自身が伝えようとする不変的な幸せに他ならない。彼が小説を通して伝えてくる、人生へ意味と価値と慰めをあたえてくれるものは、いつだって「音楽(芸術)」と「自然」と「家族」だった。

 

その3つにこそ、自分が生きる意味とヒントなんかを見つけられるかもしれない。言葉を変えれば「自分の命を使う」相手先として最高の候補になってくれるのだろう。

誰にとっても相性のよい小説家がいるだろうと思う。もしヘルマン・ヘッセを試してみたひとの、その枠に彼がバチンとはまるようなら、その人の人生に刺さるほどの優しさに包まれた、ヘッセの名著たちが待っていることを約束できる。

 

音楽と自然と家族へ、ひとの幸せの意味を見つめつづけたヘルマン・ヘッセこそが、永遠に青春を生きた人間のひとりなんだ。