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この短編が凄い。 トーマス・マン「すげかえられた首」

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これまで読んだ中で異常に面白かった短編を思い返してみる。

 

 

サマセット・モームサナトリウム

トルストイ「クロイツェル・ソナタ

トルーマン・カポーティ「ローラ」

 

このあたりを思い出す。カポーティはタイトルを忘れたけど、篠突く雨のなかで男(画家?)が少女と邂逅する短編も凄く良かった。タイトルを忘れたけれど

 

 

今回読んだのが、

トーマス・マン「すげかえられた首」。もちろん初読。

 

読後最初に「サナトリウム」の時と同じ平板な感想が浮かぶ

“まるで小説の教科書のよう”だ。

 

 

夫と妻と、夫の親友との三角関係を描くのだが、この妻を舐め回すような男たちの目線で分析された「妻」の描写が絶妙にいやらしい。

粘着質ではなく、むしろ乾いた調子でこざっぱりととんでもない直球ワードを使ってこの女の身体は描写される。作者の技術と女の趣味、この文庫(出版社)と訳者のワザが大真面目に光る。

 

 

トーマス・マンの「ヴェネツィアに死す」は美少年無双だったが、アレもこんなにエロかったか覚えていない(半端じゃない出来の良さに受けた衝撃だけを記憶している。まだ1読しかしていない)。また今度掘り返して読んでみようと思う。

 

 

物理的な不貞を働いてはいない「妻」が、男らしい身体を持つ夫の親友へ心を惹かれる己をやましく思ったり、それに感づいても何も出来ない頭の良すぎる「夫」と、夫婦がそれに感づいている事に感づいていても黙っている、優しすぎる「夫の親友」と。

 

 

やがてとある事故(事件)から、「夫」と「夫の親友」の首が両方取れる。それはもうあっさり取れる。

それを嘆いて自殺を試みる妻だったが、神の魔術によって、「夫」と「夫の親友」の首をこの「妻」の手でくっつける事が可能となる。

だが、首と胴体をくっつけた事などない妻はそれを焦り、「夫」の首を「夫の親友」の身体に、「夫の親友」の首を「夫」の身体にくっつけてしまう。

 

 

首がすげかえられてしまう形になるが、それでも紳士的に、平和的に受け入れる三者。

 

読者はこのあたりでぼんやりと、あるいははっきり黒々と、頭の端っこに「何か」が引っ掛かる事を感じている。やがてそれは確信に変わる。

 

 

やはり、妻、お前は

 

わざと二人の首を取り違えてくっつけたな?

 

「夫」の賢い頭と「夫の親友」の素晴らしい肉体の、その両方が欲しいから

 

 

そして物語が閉じられる最後には絶望に似た感情と、それに相反する清々しさを覚える。

人間の汚さと、美しさと、それを全て受け入れる素直さと。

だが、ぼんやり漂う「欲」やエゴさえも神話的な筆致で描かれているが故に、人間の生臭さに関しては薄くなっている。

そう。この物語には「悪役」や「悪」が明確には存在していない。

 

この作者が「悪役」をこの物語に残さずに済んだのは、優れた小説家としての彼の技量がそうさせたのだろう。

 

でも同時にこうも考えられる。

「誰も悪くない」ってのが「いちばん悪い」事なのではないか。

責める相手がいない不幸? それなら責める相手がはっきりしている不幸の方がマシだろう。

「誰も悪くない」……それって「最悪」だ。

 

 

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