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ブラック会計事務所勤めで人生詰んだ私があなたのヒマをつぶすブログ

結婚なんてただの絶望なんだから。アルベルト・モラヴィア「軽蔑」

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結婚してたった2年なのに、自分に対する妻の愛を疑いはじめた男が、めちゃ長い一人語りを展開する。やがては妻の言葉によって彼は知ることになる。もう妻は自分を愛していないどころか「軽蔑」しているのだ、と。

 

なんでこれを一人称で書いちゃったんだ、と読者が唖然とする圧倒的な夫の「オレ語り」がこの小説の全てであり、それ以外の何物でもない事実が変な質量と魅力に化ける。かつては息をしていた妻の愛を、ムリヤリにでも生き返らせようと奮闘するこの男の姿たるや胸焼けするほどの愚直さで繰り返される。何度でも言おう、繰り返されるのだ。いちいち言わんでも良い事を言って、気にしなくたって良いような妻の何気ない仕草や言葉を、神から授かった悲運であるかのように、我哀れんで己の胸へ深々と突き刺す。延々とそれをする小説がこれだ。

あらゆる言動と、ちょちょ切れまくる涙がこの男の情けなさを筆舌に尽くしがたい次元へ到達させているのだが、読み手が男性の場合いい加減気付くだろう。そうなのだ、これって結構オトコあるあるなのだ。女々しい男の人体標本を指差し棒で強調されても驚かないのは、我々はコレを知っているから。この男と似たような事をいっぱいしてきた生物だから。

 

相手の愛を試したくて、女からすればあまりに下らない駆け引き(しかもまず男が負ける)を仕掛け、互いに何の益もない結末さえ予測できずに、ただ愛が死んでいく。愛は時間と共に少しずつ死んでしまう物なのかもしれない。長い時間を共に生きる相手とならば、何度も何度もふたりでそれを治して再構築していかねばならないだろう。でもこの夫のやり方が下手くそすぎて見ているのが辛いのだ。しかも散々妻の心を考察しても、肝心な所で大事な一言が出ない。その勇気のなさを自覚していながら何もできずに下を向くだけの夫だ。なんだコイツは、見覚えがあるぞ。そうだ、これこそ我々男だ。

この読書体験は「苦行」に他ならない。どうしようもなく失敗したのに、それでも愛が復活すると信じて未だに失敗し続ける、「ダメ夫に共感できちゃう自分もいる」辛い時間を強制される。

 

どちらかが冷めてしまったらもう愛は終わりなのだ。それはもう形を変えて愛とは別の物になっている。それが何なのかは、その人間のすがる「言葉」への帰結に過ぎない。夫婦、妥協、諦め、真実、現実、許し、人生、結婚、失敗、責任、惰性、亡骸、死んだ夢、死んだ愛、思い出、青春、そして「軽蔑」。何と名づけようが間違っていないし、どれも今日の空腹を慰める食べカスにもならないだろう。

結論を言うと、妻の愛は生き返る。ある形を取って。もう頭がおかしくなった夫の「オレ語り」における最後のハイライト部分なので、何をどのように解釈するかで、この小説を読む者の判断と評価に幅を持たせる効果がある。作者のアルベルト・モラヴィアがこの小説を一人称で書いた成果がここに出る。一人称視点で語ることによって、妻の「軽蔑」の理由さえもはっきり分からないという、劇的で奇妙で絶望的なスパイスもドバドバ投入される。

 

たしかに結婚なんてただの地獄だ。でも、どうせ結婚なんかしてもしなくても、人生そのものが地獄じゃないか。女々しく泣いてばかりいないでさっさと次行けよ。なんて他人事のように考えられない節があるのが、この小説と男という情けない生物の怖さ。

とりあえず女に捨てられる前に、予習としてこの小説を読んでみてはいかがだろう? だが、同志である男性たちよ、私は断言できる。ど う せ 結 果 は 変 わ ら な い 。

 

民族衣装ってエロいよね「マイトレイ」

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ミルチャ・エリアーデ「マイトレイ」。これは20代半ばのルーマニア青年が、インドの10代少女と淫行に及び、やがて別れるまでの小説である。

と紹介すれば怒られるだろうか。私の所感はそれだった。ヒンドゥー教と家柄とカースト社会の壁に阻まれ、実らなかった恋の傷跡を掻きむしる、作者の告白小説だ。

でも散々豊満ボディのエロインド娘とやりたい放題できたんだから良いじゃないか、男冥利に尽きるよね、おめでとう! ……などという感想だけで読書を終えてばかりだから、私の人間性は薄く、ボキャブラリーはすぐに底を見せるのだろう。

 

「マイトレイ」が持つ、私が感じた少し特別なモノにもきちんと触れねばならない。最初に感じたのはこの小説が持つ透明感。トルーマン・カポーティを思い出した(もちろん初期の)。「冷たい液体が入ったグラスに浮かぶ水滴のような文章」だか何だかカポーティのセンテンスを評した偉い人の言葉があったが、この「マイトレイ」にも同じものを見た。

わざわざ稚拙な日記の写し書きが本文に挟まるのだが、初めはこれが物語の足運びを邪魔して、テンポを崩させる異物のように見える。でもやがて少しの対比が見える。あくまで本文は柔らかくて透明なのに対し、日記は字面こそ柔いが内容は硬い。なぜなら、日記に書かれているのはあくまで感情を超えた事実ばかりだから。

 

そこで冒頭の「インドの10代少女と~」へと話を戻すが、この小説はとりあえず「快楽」や「悦楽」や「官能」のワードをくっつけて語られる小説である。これは間違っていない。なんか無性にエロいから。頑なに「罪深いからダメ」と肉体的な愛を拒んでいた少女を攻略したときの悦びと、その肌の熱さと柔さと剥き出しの欲と、猿と化した人間を見る既視感が清々しい。狙った女(男)と、ついに初めての交わりを迎える悦びを、誰もが知っているだろう。事後に少しばかりの征服感と愛情と虚しさと、言葉にできないマイナスの感情を抱いて眠る(ふりをする)ふたりの初夜だ。後から思い返してみると、どんなに素晴らしい相手との情交でも、相手の服を脱がせるまでの過程こそがピークであり、その後は大体似たり寄ったりのプロセスになるから、思い出としてはあまり優秀じゃない(全ての終着点が同じだから)。

そんな細かいことは長々と語らないが、肉欲のどうしようもない虚しさよりも、それによって打ちひしがれる魂にスポットを当てて、報われない愛の救いの無さを綴る。この小説が森鴎外の「舞姫のような言い訳並べるだけのクソ小説(反転表示)だと思わせないのは、それこそ保身しないで作者のエリアーデが自分をとことん情けないみっともない性欲ごまかし男の姿で描くからかもしれない。

 

読み手によるのだろうが、自分が意外に感じたのは「終わった恋を嘆くのは大抵男の方」だという方程式の逆をこの「マイトレイ」が行ったところ。

過去のために生きるのは大体男で、それによって今日を台無しにする。女は逆に描かれることが多い。明日ばかり夢見て、過去から離れるために今日を犠牲にする。それ故やはり今日を台無しにする。

私が目にしてきた多くの物語の逆パターンの収束を見せた。これはこれで面白い。

 

インド絡みの小説にはどうしても「神話」だの何だのという例えが付いてくるが、そんな面倒くさいモノは放っておいてよろしい。インド娘のサリーをめくって、テーブルの下でこっそり互いの太ももを擦り合わせて、書庫の奥で隠れてインド娘の腕をベロベロ舐めまわして、ついには豊満な裸体を抱きしめてやりたい放題してみよう。まだまだ恋愛も性交もする元気のあるあなたにこの小説を勧めよう。

 

ヴィクトール・フランクル「それでも人生にイエスと言う」

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いかなる人生も社会の為の「手段」にされてはならない。いかなる人生もそれ自体が「義務」であって、辞めることは許されない。

死んだ方がはるかにマシだと思える体験をした精神科医は語る。ご存知の方ばかりだろうが、著者のヴィクトール・フランクルナチス強制収容所にブチ込まれ、極寒の氷の世界で一日一杯のスープだけを命の糧に重労働を3年間続けた。毎日気持ちの良い風呂や、甘いケーキの事を、今日のスープに1切れでもイモが浮かんでいないかな、とそれだけを考えながら。人が人以外の何かみたいに簡単に死ぬ瞬間を。明日はガス室送り(処分)になるかもしれない毎日を。

 

戦争が終わり、収容所から解放されたその翌年に大学で行われた講義の記録が本書である。何かを強く訴える人の本を幾度と読んだが、優れた主張には共通点がある。それは「被害者」や「告発者」として叫ばない、ということだ。この人もそうだ。「当事者」ではなくて「一人の人間」の姿で社会へ放つ言葉がとにかく刺さる。

 

私がどうしても覆すことの出来なかった自説と、全く異なるアプローチで、変な形で重なってくる内容が重大な発見になった。ヴィクトール・フランクルの言葉の99%はそのまま素直に人生訓にしたい。例えば、

生きることに意味なんてあるの?

という人類のテーマに対して、私は「意味なんてあるわけがない」と常に考える。これまで意味のあった一生など、歴史の教科書に載る人生くらいしかない。現代社会でも数える程度しか居ないのではないか。あとは代替可能の人生であって、もっと言うとそれ以下で、最初から居なくたって何の問題もないのだ。涙ぐましい支えとして、自分の人生に意味なんてないのだから、それは自分にではなく、自分の周りの人たちに少しでもその意味があれば良い。という考え方を私は抱き続ける。

 

フランクルのアプローチはもっとキレイで分かり易かった。彼の答えは「お前はそもそも人生を裁く立場にいない」という内容(もっと美しい言葉で教えてくれます)だった。

勘違いしているのだ。人生に意味があるかどうかじゃなくて、我々はそもそも自分の人生に試されていて、それに答える義務がある。私もそうだが、誰しも「人生に期待している」のだ。何か良い事が起こるように。自分が認められるように。もっと良い日が将来に待っていてくれるように。これ、逆なんだ。

自分自身に生きる意味なんてない、自分の周りの人にそれがあると考えることで、己を慰める私の脆弱な保身と変にリンクする。そうだ、人生に期待するのは間違っている。我々はその逆を考えなければいけない。逆に、自分の人生の方は我々に何を期待しているんだ? これを考えなきゃいけないのだろう。

それこそが「意味」や「理由」を求めてもろくな答えなんて誰も持ち合わせていない秘密だ。人生に応える「義務」が誰にもある。その事実だけがある。

 

 

でも幸せになりたい。 誰もが思う。このテーマにもフランクルが触れる。

「幸せになりたい」と願う時点でその人は今幸せじゃない。そればかりか「幸せ」を目的にしてしまっている。それに対して、フランクルは真顔でこう言ってくる。「幸せって目的にする物じゃなくて、結果としてついてくる物じゃないんですか?」と疑問をぶつけてくる。なるほど、言われてみればそうだ。

私は「自分が出会った中で、本当に幸せなヤツなんて居やしなかった」から、「どうせみんな不幸なんだから、自分が不幸でも生きてたっていいじゃん」という考えを持っていた。

でも、勝手な解釈ではあるが、我々の唱える言葉は同じ終着点へ向かうように感じたのだ。

 

自分の人生に期待することをやめて、人生の方が自分に何を期待しているのかを考える。きっと誰の人生もその人の幸せを期待しているだろう。頑張ってそれに応えてみたらどうだろう。幸せがおまけでくっついてくるかもしれない。

 

そうなのだ、そもそも我々だって幸せになっても良いのだ。生まれながらにチート性能を備えた人生じゃなくても、歴史の教科書に載る人生じゃなくても、痛い思いばかりの人生でも、幸せになったって良いのだ。それ相応の応えかたを人生へできたそのときに。

フランクルの著作「夜と霧」を読んだときの、心が跳ね上がる戦慄をまた感じた。

人生の節目で何度も読む本になるかもしれない。5年後だろうか、10年後だろうか、子供ができたときだろうか、もう治らない病気を患ったときだろうか。

今回は「幸せになっても良いんだよ」と気付かされた。いつか再びこの本を読んだとき(講義を聞いたとき)に「それは今なんだよ」と教えてもらえるような人間になりたい。