世界中の「あの人」を

ブラック会計事務所勤めで人生詰んだ私があなたのヒマをつぶすブログ

今年最初のヒット!「海を照らす光」

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今年最初の大発見となったのが「海を照らす光」。

これは間違いなく良書だ。誰が読んでも、いかなる感想を抱いても、流した涙がどこへ向けられたものでも、作中の誰を味方し誰を憎んだとしても、それは正しいだろう。まずはストーリーだけを紹介したい。

 

灯台守として働く夫とその妻は、世界から隔絶されたセカイで生きていた。かつて戦争に参加し、心のどこかが壊れた夫と、何度も死産を繰り返す妻のふたりで。互いに愛し合い、毎日を支え合う夫婦の住む灯台に、ある日1隻のボートが流れ着く。ボートの中には男の死体と、生きた赤ん坊。本土に報告を入れて、正規の手続きをもって赤ん坊をどこかにいる母親に返そう、と夫は言う。妻は逆のことを言う。この赤ん坊に必要なのは規則ではなくて、今助けてくれる母と愛であり、自分たちにもこの子が必要であり、この子は私たちの子供だ、と。

 

あなたは、ここからどのような展開を予想されるだろう? 私はこの小説が広げる展開の中のキーワードとして「良心の呵責」や「狭い世界で育つ、濃密な哲学と人間性と悲劇と自殺」を予想した。ネタバレにならない範囲の結論を言うと、結末そのものとしては凄まじい意外性はない。大ドンデン返しも「全オレが泣いた」ような奇跡のお話でもない。

 

 

この小説がズルいのは、その赤ん坊を失った母親の描写にも手を抜かないからだ。読み手がもうとっくに感情移入してしまった「不妊に苦しんでいた夫婦」と逆の、赤ん坊を失った母親目線の物語がいきなり描かれる。灯台の夫婦と一緒に赤ちゃんをネコババする体験を共有した読者にとって、これは本当に苦痛だ。私は久しぶりに読むことを止めてしまおうかと検討したほど辛い思いをした。

まずは赤ん坊を拾った灯台の夫婦が、どれほど幸せで輝かしい日々をその子に与えられたのかを、まざまざと読者に見せ付ける。やがて本土へ一時帰郷した灯台の夫婦は、夫と子供を同時に失ったひとりの女と出会う。言うまでもないだろう、実はこの女が赤ん坊の母親である。

そして残念ながら読者は知る。夫とわが子を同時に失ったこの母親の壮絶な痛みを。その理由と遠因は「戦争」にある。そこでひとつの設定が恐ろしいかたちをとって浮かび上がる。灯台の夫婦の夫になぜわざわざ「戦争帰り」の設定がくっついていたのか、私たち読者が気付くころにはもう遅い。読書家ならば何らかの作品で触れたことがあるだろう、これはもう最悪だ……。この小説は夫婦間の物語から、人間そのものを描く物語へと舵を切りはじめる。心の準備なんてできないまま子を授かった作中の夫婦のように、なんの覚悟もできていないまま、私たちは壮絶な痛みと感情の中へ放り出される。

 

この小説には「共通の痛み」がある。3度の死産で子供をすべて失った灯台の妻、夫とわが子を同時に失った産みの母、そして戦争の影が消えない灯台の夫さえも同じ痛みを抱える。自分が殺した人間のこと、死んでいった戦友たちのこと、妻と産みの母にも同じように流れる「なぜ自分だけが死なずに今ものうのうと生きているのか」という叫びがページのすきまから漏れてくる。

 

中盤からの物語でついに夫婦のしたことが暴かれ、産みの母と育ての母と、どちらが子に相応しいのかという実際的な苦悶にスポットが当たる。自分で産んだ子が灯台育ちの「よその子」になって返された産みの母の壮絶な悲劇。「自分の子」として育てた幼子を取り上げられた灯台の妻の絶望。妻のためにも産みの母である女のためにも、何も出来ない灯台の夫は償い方なんて分からなくて自分の命だけ差し出す。

警察や弁護士、互いの両親や友人の感情まで入り混じった混沌が形成するのは、凄まじい完成度でドラマをしている現実の痛み。気が付いた時には作者の展開する魔法と、小説内のドラマの両方を見せられ、目くるめく感情と嘆きと許しと怒りに心と頭が少し壊されてしまう。

 

この作者は情景描写があまり上手くないのかな(冒頭70Pくらいまで)、なんて思って読み始めたのも遥か昔。これがとんでもない良書だと気付かされてからは早かった。この小説を偶然手にするきっかけをもたらしてくれた妻に密かに感謝する(本人はいまananなど読んでいるが)。

 

 

「あなたが一番取り返したい命はどの命だろう? あなたが一番会いたい”もう二度と会えないあの人”は誰だろう?」なんて訊かれたその後に、

「それを叶える為に2番目と3番目を差し出しますか?」と言われたらどうだろう。私はきっとYESと言う人間かもしれない。私と同じ答えを返す人も少なくないだろう。

この小説は、私たちの最後のYESにもうひとつだけ、あと一回だけ問いかける。

 

「本当に差し出せますか? 後悔しないって誓えますか?」

この小説を読んだ今となっては、もう何も言えなくなってしまった。

あなたはどうだろう? なんと答えるのだろう? 世界中の「あなた」の「あの人」のために、このブログのコンセプトから投げかけてみたい。

 

 

「素数たちの孤独」。これ読んで誰が得するんだよ

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青春小説の中には、予想以上に痛々しい物が隠れているのを御存知だろう。そういえばもっと痛いのがある。それは、大人になってから青春時代の傷を抉って完成するパターンの痛みだ。「素数たちの孤独」がこれにドハマりするように感じた。

歪んでしまった思春期が出会うとき、それがまるで互いの隙間をピッタリ埋めるために歪んでいたかのような悲喜劇を生む事がある。この小説の主人公ふたりもそうだろう。相手にピッタリ合わせるように歪んで、壊れてしまっていた。でも、このふたりの青春はキレイには重ならない。傷を隠し合うように寄り添って生きたけれど、ふたりの心も体もくっつかない。そうするにはまだ遠すぎるんだ。隣り合う「素数」は未だこの世界に存在しない。

 

天才的な数学の素養を与えられたマッティアは、かつて「人とのつながりを求めて」ある人をある場所に置き去りにして、己の心に消えない傷を刻んだ。それはやがて自傷癖を伴い、他人を拒絶する人格を形成する。

幼い頃のスキー事故で足に障害を負ったアリーチェも「人とのつながりを求めて」消えないタトゥーを身体に刻んだ。それがすぐにただの消えない傷となり、拒食症を伴う身体の破壊が始まる。マッティアのような自傷癖を持たない彼女だが、それ以上に自らの身体に無関心で、「それ」が壊れることに何の関心も示さない。歪んで壊れたふたりは高校生のときに出会う。

そしてあるときマッティアは「自分たちはまるで素数のようだ」と悟る。どんなに近い素数同士でも、そのふたつは決してくっつかず、必ず間に偶数が挟まる。人生で最も近くにいる大切な存在でも、触れるには遠すぎる。離れようにも近すぎる。

 

見事なまでに重ならない心と、「人間って悪意も無しに、こんなにすれ違えるんだ……」と思わせる光景がジェーン・オースティンを思い起こさせる(特に「プライドと偏見」。あれの比じゃない毒を含むが)。やがて大人になって家庭を持って、仕上げに青春の傷を抉って、最後にまた抉って、それで完成したのがこの小説だ。

 

物語の最後に一瞬だけ見えた光が、読後にはただの残像として目蓋に残る。これ読んで誰が得するんだ? と思わせる結末が私の心を振動し続ける。消えない疑問が残る。なぜ人生の全てに打ちのめされただけの女(アリーチェ)が、最後に笑って物語が終わったのかが分からない(ネタバレのためPC反転表示)。これはたぶん自分が男である限り、その本質は理解できないタイプの感情なのだろうと思う。

 

作者のパオロ・ジョルダーノが、このふたりを書けば書くほど、それは純粋な「傷」になる。どれだけの言葉も動きも感情も、作り出すのは「空虚」や「隙間」や「孤独」にしかならない。もうやめてくれ、もういいよ、と歯を噛み締めるところで小説が結ばれる。

この感情を例えてみよう。小説でもマンガでもゲームでも映画でも音楽でも、あらゆる素晴らしい文化は、どうして素晴らしいのか? それは、触れた者の心の中に何かを残すからに他ならない。でも私たちは「その逆」があることを本当は知っている。その中のイレギュラーな作品の一部は「観た(読んだ、聴いた)人の中の何かを無くす(亡くす)」から更に凄いのだと知っている。きっとそうなのだ、この小説は「自分の中の何かを無くす読書体験」になる可能性を含む「毒」だった。

 

誰だって知らないままに、どうしても何かを背負ってしまっているから、だからどうしても自分の中の何かを無くさなければならなくて、どうしようもないまま悲しいストーリーや音に身を寄せて震える。そうして何かを捨て去った(或いはフリをして)明日をやっと迎えている。

 

読んだときには「これは精神的にヤバいタイプの小説だ!」とは思わないだろうが、読後にその遅効性の毒が効いてくる。見た目に美しい涼やかな水を飲んだそのつもりで、それは実は毒だった。そういった小説を読んだ事があるでしょう。

この「素数たちの孤独」は、その筆頭に躍り出んとするパオロ・ジョルダーノのデビュー作である。なんか憂鬱なあなたは、もっと憂鬱になりたいだろう。もっと堕ちたいだろう。じゃあ、コレだ。この小説を読もう。どうしようもない感情を抱いて今日を生きるあなたには、きっとコレが必要なのだから。

 

結婚なんてただの絶望なんだから。アルベルト・モラヴィア「軽蔑」

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結婚してたった2年なのに、自分に対する妻の愛を疑いはじめた男が、めちゃ長い一人語りを展開する。やがては妻の言葉によって彼は知ることになる。もう妻は自分を愛していないどころか「軽蔑」しているのだ、と。

 

なんでこれを一人称で書いちゃったんだ、と読者が唖然とする圧倒的な夫の「オレ語り」がこの小説の全てであり、それ以外の何物でもない事実が変な質量と魅力に化ける。かつては息をしていた妻の愛を、ムリヤリにでも生き返らせようと奮闘するこの男の姿たるや胸焼けするほどの愚直さで繰り返される。何度でも言おう、繰り返されるのだ。いちいち言わんでも良い事を言って、気にしなくたって良いような妻の何気ない仕草や言葉を、神から授かった悲運であるかのように、我哀れんで己の胸へ深々と突き刺す。延々とそれをする小説がこれだ。

あらゆる言動と、ちょちょ切れまくる涙がこの男の情けなさを筆舌に尽くしがたい次元へ到達させているのだが、読み手が男性の場合いい加減気付くだろう。そうなのだ、これって結構オトコあるあるなのだ。女々しい男の人体標本を指差し棒で強調されても驚かないのは、我々はコレを知っているから。この男と似たような事をいっぱいしてきた生物だから。

 

相手の愛を試したくて、女からすればあまりに下らない駆け引き(しかもまず男が負ける)を仕掛け、互いに何の益もない結末さえ予測できずに、ただ愛が死んでいく。愛は時間と共に少しずつ死んでしまう物なのかもしれない。長い時間を共に生きる相手とならば、何度も何度もふたりでそれを治して再構築していかねばならないだろう。でもこの夫のやり方が下手くそすぎて見ているのが辛いのだ。しかも散々妻の心を考察しても、肝心な所で大事な一言が出ない。その勇気のなさを自覚していながら何もできずに下を向くだけの夫だ。なんだコイツは、見覚えがあるぞ。そうだ、これこそ我々男だ。

この読書体験は「苦行」に他ならない。どうしようもなく失敗したのに、それでも愛が復活すると信じて未だに失敗し続ける、「ダメ夫に共感できちゃう自分もいる」辛い時間を強制される。

 

どちらかが冷めてしまったらもう愛は終わりなのだ。それはもう形を変えて愛とは別の物になっている。それが何なのかは、その人間のすがる「言葉」への帰結に過ぎない。夫婦、妥協、諦め、真実、現実、許し、人生、結婚、失敗、責任、惰性、亡骸、死んだ夢、死んだ愛、思い出、青春、そして「軽蔑」。何と名づけようが間違っていないし、どれも今日の空腹を慰める食べカスにもならないだろう。

結論を言うと、妻の愛は生き返る。ある形を取って。もう頭がおかしくなった夫の「オレ語り」における最後のハイライト部分なので、何をどのように解釈するかで、この小説を読む者の判断と評価に幅を持たせる効果がある。作者のアルベルト・モラヴィアがこの小説を一人称で書いた成果がここに出る。一人称視点で語ることによって、妻の「軽蔑」の理由さえもはっきり分からないという、劇的で奇妙で絶望的なスパイスもドバドバ投入される。

 

たしかに結婚なんてただの地獄だ。でも、どうせ結婚なんかしてもしなくても、人生そのものが地獄じゃないか。女々しく泣いてばかりいないでさっさと次行けよ。なんて他人事のように考えられない節があるのが、この小説と男という情けない生物の怖さ。

とりあえず女に捨てられる前に、予習としてこの小説を読んでみてはいかがだろう? だが、同志である男性たちよ、私は断言できる。ど う せ 結 果 は 変 わ ら な い 。