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「素数たちの孤独」。これ読んで誰が得するんだよ

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青春小説の中には、予想以上に痛々しい物が隠れているのを御存知だろう。そういえばもっと痛いのがある。それは、大人になってから青春時代の傷を抉って完成するパターンの痛みだ。「素数たちの孤独」がこれにドハマりするように感じた。

歪んでしまった思春期が出会うとき、それがまるで互いの隙間をピッタリ埋めるために歪んでいたかのような悲喜劇を生む事がある。この小説の主人公ふたりもそうだろう。相手にピッタリ合わせるように歪んで、壊れてしまっていた。でも、このふたりの青春はキレイには重ならない。傷を隠し合うように寄り添って生きたけれど、ふたりの心も体もくっつかない。そうするにはまだ遠すぎるんだ。隣り合う「素数」は未だこの世界に存在しない。

 

天才的な数学の素養を与えられたマッティアは、かつて「人とのつながりを求めて」ある人をある場所に置き去りにして、己の心に消えない傷を刻んだ。それはやがて自傷癖を伴い、他人を拒絶する人格を形成する。

幼い頃のスキー事故で足に障害を負ったアリーチェも「人とのつながりを求めて」消えないタトゥーを身体に刻んだ。それがすぐにただの消えない傷となり、拒食症を伴う身体の破壊が始まる。マッティアのような自傷癖を持たない彼女だが、それ以上に自らの身体に無関心で、「それ」が壊れることに何の関心も示さない。歪んで壊れたふたりは高校生のときに出会う。

そしてあるときマッティアは「自分たちはまるで素数のようだ」と悟る。どんなに近い素数同士でも、そのふたつは決してくっつかず、必ず間に偶数が挟まる。人生で最も近くにいる大切な存在でも、触れるには遠すぎる。離れようにも近すぎる。

 

見事なまでに重ならない心と、「人間って悪意も無しに、こんなにすれ違えるんだ……」と思わせる光景がジェーン・オースティンを思い起こさせる(特に「プライドと偏見」。あれの比じゃない毒を含むが)。やがて大人になって家庭を持って、仕上げに青春の傷を抉って、最後にまた抉って、それで完成したのがこの小説だ。

 

物語の最後に一瞬だけ見えた光が、読後にはただの残像として目蓋に残る。これ読んで誰が得するんだ? と思わせる結末が私の心を振動し続ける。消えない疑問が残る。なぜ人生の全てに打ちのめされただけの女(アリーチェ)が、最後に笑って物語が終わったのかが分からない(ネタバレのためPC反転表示)。これはたぶん自分が男である限り、その本質は理解できないタイプの感情なのだろうと思う。

 

作者のパオロ・ジョルダーノが、このふたりを書けば書くほど、それは純粋な「傷」になる。どれだけの言葉も動きも感情も、作り出すのは「空虚」や「隙間」や「孤独」にしかならない。もうやめてくれ、もういいよ、と歯を噛み締めるところで小説が結ばれる。

この感情を例えてみよう。小説でもマンガでもゲームでも映画でも音楽でも、あらゆる素晴らしい文化は、どうして素晴らしいのか? それは、触れた者の心の中に何かを残すからに他ならない。でも私たちは「その逆」があることを本当は知っている。その中のイレギュラーな作品の一部は「観た(読んだ、聴いた)人の中の何かを無くす(亡くす)」から更に凄いのだと知っている。きっとそうなのだ、この小説は「自分の中の何かを無くす読書体験」になる可能性を含む「毒」だった。

 

誰だって知らないままに、どうしても何かを背負ってしまっているから、だからどうしても自分の中の何かを無くさなければならなくて、どうしようもないまま悲しいストーリーや音に身を寄せて震える。そうして何かを捨て去った(或いはフリをして)明日をやっと迎えている。

 

読んだときには「これは精神的にヤバいタイプの小説だ!」とは思わないだろうが、読後にその遅効性の毒が効いてくる。見た目に美しい涼やかな水を飲んだそのつもりで、それは実は毒だった。そういった小説を読んだ事があるでしょう。

この「素数たちの孤独」は、その筆頭に躍り出んとするパオロ・ジョルダーノのデビュー作である。なんか憂鬱なあなたは、もっと憂鬱になりたいだろう。もっと堕ちたいだろう。じゃあ、コレだ。この小説を読もう。どうしようもない感情を抱いて今日を生きるあなたには、きっとコレが必要なのだから。