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ブラック会計事務所勤めで人生詰んだ私があなたのヒマをつぶすブログ

イケメンだって鬱病になるのだよ「鬱病ロッカー」

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こんなイケメンが鬱病になるわけないだろ。私はそう思った。これは、鬱病というか「適応障害」ロッカーなる方の著作。著者の兒玉 怜は「baroque」というバンドで活動しているプロのミュージシャンである。病が最悪の状態に達したときは「kannivalism」というバンドで活動していた。当時のV系好きな人ならば紹介不要であるような人気バンドのボーカルだった。先に記載するのだが、この当時私も多少彼のバンドの音楽を聴いていたが、私自身が音楽の知識も経験も皆無のため、当エントリでは音楽と彼の作中の詩(詞)の内容や評価等には一切触れない。

 

鬱病ロッカー」は兒玉 怜が適応障害を発症し、悪名高いと評判の「東京クリニック」なる病院によって薬漬けにされ、胃液が無くなって血を吐くまで毎日嘔吐を繰り返し、やがてアタマも壊れて入院して、月70万円の高額治療費などで家族も崩壊し、悲惨な闘病の後に社会復帰を果たすまでを描く。

なんて紹介をすると、なんとも重々しい本なのだな、と思われるだろうか。案外そういった読書体験にはならない。小説家という人種であれば、カッコつけたり華麗に見せようとしたり、もっと上手く読ませようと変に技巧を入れたり、と文筆家のクセが出てくる。だが、もちろん作者の兒玉 怜にそれは無い。むしろ、していない。プロのミュージシャンとして歌の歌詞を書いている以上、言葉を扱うプロフェッショナルには違いないのだろうが、変に気取らないで、目の前で読者に話して聞かせるような文章が続く。かなり内容がハードなシーンでも、言葉が「そのまんま生身のお兄さん」から出てくるので、悲痛な読書にはならない仕組みだ。

 

 

ご存知の方も多いだろうが、著者の兒玉 怜はかなりのイケメンだ。私の好みで言えばデビュー時から適応障害を発症したあたりまでが特に奇跡的なご尊顔に見える。更に言えばオリコンでトップ10に入るような曲をバコバコ出しまくるバンドのボーカルで、印税が入って、若い女の子たちの黄色い声を浴びまくって、好きな女たちを好きに抱きまくる(実態は知らないが、当時かなり女にだらしなかったと本著で告白している)。

こんなハイスペックチート人間が鬱病になるだと? この男が一体どれだけ贅沢な悩みを語るのだろうか? そう思って読み始めるが、すぐに分かる。チンピラ崩れたちがパワハラと暴力を巻き起こしている業界のとんでもない闇と、少し他人とは違う彼自身の脆くて細い心が見える。あの時のオレこうだったんだよ、と手にとって見せてくれているかのように具体的な悪夢が見える。不謹慎だが、これが真実なら納得だ。

 

人が壊れるきっかけなんて、後から振り返ればほんとうに小さなことなのだろう。著者も述べているが、誰もが壊れてしまうほど凄まじい体験をしたから「心の病」にかかるわけではない。ネガティブな人間が少しずつ蓄えたマイナスの感情が積もり、「あ、いま壊れた」なんて気付かないうちにダメになっているのだろう。東京クリニックを発端とする精神安定系の「薬物依存」から身体を壊し、入院中になんとか薬を絶つことで著者は回復したようだが、それが回復の決め手だったのかどうか定かではないらしい。だが、どう考えてもこの手の薬はやばそうだ。

 

興味深いのは、著者が同情も共感も嫌悪していることだろう。「頑張ったね、大変だったね」なんて言われたくないし「その辛さが分かるよ」とも言われたくない。ただ、彼はその体験を綴ることで、同じ孤独と恐怖に震える人が経験を共有して、少しばかりでも心の隙間を埋める助けになりたいという思いから本著を書いたそうだ。

人気商売してる人がこんな事まで書いちゃって大丈夫なの? と思わせるくらい、弱くて情けない自分をとことんまで素直な言葉で晒す姿に非常な好感を抱く。本当に根がマジメで良い人なんだろう。

ウルトラブラック社畜の私でも、まだたしなむ程度で済んでいるが、日常的に睡眠系と精神安定系の薬に手を出している人に一読を勧める。

一時期よく目にした「ハマる前に読め」というお薬系のキャッチコピーが脳裏をかすめるのなんの。

 

今年最初のヒット!「海を照らす光」

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今年最初の大発見となったのが「海を照らす光」。

これは間違いなく良書だ。誰が読んでも、いかなる感想を抱いても、流した涙がどこへ向けられたものでも、作中の誰を味方し誰を憎んだとしても、それは正しいだろう。まずはストーリーだけを紹介したい。

 

灯台守として働く夫とその妻は、世界から隔絶されたセカイで生きていた。かつて戦争に参加し、心のどこかが壊れた夫と、何度も死産を繰り返す妻のふたりで。互いに愛し合い、毎日を支え合う夫婦の住む灯台に、ある日1隻のボートが流れ着く。ボートの中には男の死体と、生きた赤ん坊。本土に報告を入れて、正規の手続きをもって赤ん坊をどこかにいる母親に返そう、と夫は言う。妻は逆のことを言う。この赤ん坊に必要なのは規則ではなくて、今助けてくれる母と愛であり、自分たちにもこの子が必要であり、この子は私たちの子供だ、と。

 

あなたは、ここからどのような展開を予想されるだろう? 私はこの小説が広げる展開の中のキーワードとして「良心の呵責」や「狭い世界で育つ、濃密な哲学と人間性と悲劇と自殺」を予想した。ネタバレにならない範囲の結論を言うと、結末そのものとしては凄まじい意外性はない。大ドンデン返しも「全オレが泣いた」ような奇跡のお話でもない。

 

 

この小説がズルいのは、その赤ん坊を失った母親の描写にも手を抜かないからだ。読み手がもうとっくに感情移入してしまった「不妊に苦しんでいた夫婦」と逆の、赤ん坊を失った母親目線の物語がいきなり描かれる。灯台の夫婦と一緒に赤ちゃんをネコババする体験を共有した読者にとって、これは本当に苦痛だ。私は久しぶりに読むことを止めてしまおうかと検討したほど辛い思いをした。

まずは赤ん坊を拾った灯台の夫婦が、どれほど幸せで輝かしい日々をその子に与えられたのかを、まざまざと読者に見せ付ける。やがて本土へ一時帰郷した灯台の夫婦は、夫と子供を同時に失ったひとりの女と出会う。言うまでもないだろう、実はこの女が赤ん坊の母親である。

そして残念ながら読者は知る。夫とわが子を同時に失ったこの母親の壮絶な痛みを。その理由と遠因は「戦争」にある。そこでひとつの設定が恐ろしいかたちをとって浮かび上がる。灯台の夫婦の夫になぜわざわざ「戦争帰り」の設定がくっついていたのか、私たち読者が気付くころにはもう遅い。読書家ならば何らかの作品で触れたことがあるだろう、これはもう最悪だ……。この小説は夫婦間の物語から、人間そのものを描く物語へと舵を切りはじめる。心の準備なんてできないまま子を授かった作中の夫婦のように、なんの覚悟もできていないまま、私たちは壮絶な痛みと感情の中へ放り出される。

 

この小説には「共通の痛み」がある。3度の死産で子供をすべて失った灯台の妻、夫とわが子を同時に失った産みの母、そして戦争の影が消えない灯台の夫さえも同じ痛みを抱える。自分が殺した人間のこと、死んでいった戦友たちのこと、妻と産みの母にも同じように流れる「なぜ自分だけが死なずに今ものうのうと生きているのか」という叫びがページのすきまから漏れてくる。

 

中盤からの物語でついに夫婦のしたことが暴かれ、産みの母と育ての母と、どちらが子に相応しいのかという実際的な苦悶にスポットが当たる。自分で産んだ子が灯台育ちの「よその子」になって返された産みの母の壮絶な悲劇。「自分の子」として育てた幼子を取り上げられた灯台の妻の絶望。妻のためにも産みの母である女のためにも、何も出来ない灯台の夫は償い方なんて分からなくて自分の命だけ差し出す。

警察や弁護士、互いの両親や友人の感情まで入り混じった混沌が形成するのは、凄まじい完成度でドラマをしている現実の痛み。気が付いた時には作者の展開する魔法と、小説内のドラマの両方を見せられ、目くるめく感情と嘆きと許しと怒りに心と頭が少し壊されてしまう。

 

この作者は情景描写があまり上手くないのかな(冒頭70Pくらいまで)、なんて思って読み始めたのも遥か昔。これがとんでもない良書だと気付かされてからは早かった。この小説を偶然手にするきっかけをもたらしてくれた妻に密かに感謝する(本人はいまananなど読んでいるが)。

 

 

「あなたが一番取り返したい命はどの命だろう? あなたが一番会いたい”もう二度と会えないあの人”は誰だろう?」なんて訊かれたその後に、

「それを叶える為に2番目と3番目を差し出しますか?」と言われたらどうだろう。私はきっとYESと言う人間かもしれない。私と同じ答えを返す人も少なくないだろう。

この小説は、私たちの最後のYESにもうひとつだけ、あと一回だけ問いかける。

 

「本当に差し出せますか? 後悔しないって誓えますか?」

この小説を読んだ今となっては、もう何も言えなくなってしまった。

あなたはどうだろう? なんと答えるのだろう? 世界中の「あなた」の「あの人」のために、このブログのコンセプトから投げかけてみたい。

 

 

「素数たちの孤独」。これ読んで誰が得するんだよ

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青春小説の中には、予想以上に痛々しい物が隠れているのを御存知だろう。そういえばもっと痛いのがある。それは、大人になってから青春時代の傷を抉って完成するパターンの痛みだ。「素数たちの孤独」がこれにドハマりするように感じた。

歪んでしまった思春期が出会うとき、それがまるで互いの隙間をピッタリ埋めるために歪んでいたかのような悲喜劇を生む事がある。この小説の主人公ふたりもそうだろう。相手にピッタリ合わせるように歪んで、壊れてしまっていた。でも、このふたりの青春はキレイには重ならない。傷を隠し合うように寄り添って生きたけれど、ふたりの心も体もくっつかない。そうするにはまだ遠すぎるんだ。隣り合う「素数」は未だこの世界に存在しない。

 

天才的な数学の素養を与えられたマッティアは、かつて「人とのつながりを求めて」ある人をある場所に置き去りにして、己の心に消えない傷を刻んだ。それはやがて自傷癖を伴い、他人を拒絶する人格を形成する。

幼い頃のスキー事故で足に障害を負ったアリーチェも「人とのつながりを求めて」消えないタトゥーを身体に刻んだ。それがすぐにただの消えない傷となり、拒食症を伴う身体の破壊が始まる。マッティアのような自傷癖を持たない彼女だが、それ以上に自らの身体に無関心で、「それ」が壊れることに何の関心も示さない。歪んで壊れたふたりは高校生のときに出会う。

そしてあるときマッティアは「自分たちはまるで素数のようだ」と悟る。どんなに近い素数同士でも、そのふたつは決してくっつかず、必ず間に偶数が挟まる。人生で最も近くにいる大切な存在でも、触れるには遠すぎる。離れようにも近すぎる。

 

見事なまでに重ならない心と、「人間って悪意も無しに、こんなにすれ違えるんだ……」と思わせる光景がジェーン・オースティンを思い起こさせる(特に「プライドと偏見」。あれの比じゃない毒を含むが)。やがて大人になって家庭を持って、仕上げに青春の傷を抉って、最後にまた抉って、それで完成したのがこの小説だ。

 

物語の最後に一瞬だけ見えた光が、読後にはただの残像として目蓋に残る。これ読んで誰が得するんだ? と思わせる結末が私の心を振動し続ける。消えない疑問が残る。なぜ人生の全てに打ちのめされただけの女(アリーチェ)が、最後に笑って物語が終わったのかが分からない(ネタバレのためPC反転表示)。これはたぶん自分が男である限り、その本質は理解できないタイプの感情なのだろうと思う。

 

作者のパオロ・ジョルダーノが、このふたりを書けば書くほど、それは純粋な「傷」になる。どれだけの言葉も動きも感情も、作り出すのは「空虚」や「隙間」や「孤独」にしかならない。もうやめてくれ、もういいよ、と歯を噛み締めるところで小説が結ばれる。

この感情を例えてみよう。小説でもマンガでもゲームでも映画でも音楽でも、あらゆる素晴らしい文化は、どうして素晴らしいのか? それは、触れた者の心の中に何かを残すからに他ならない。でも私たちは「その逆」があることを本当は知っている。その中のイレギュラーな作品の一部は「観た(読んだ、聴いた)人の中の何かを無くす(亡くす)」から更に凄いのだと知っている。きっとそうなのだ、この小説は「自分の中の何かを無くす読書体験」になる可能性を含む「毒」だった。

 

誰だって知らないままに、どうしても何かを背負ってしまっているから、だからどうしても自分の中の何かを無くさなければならなくて、どうしようもないまま悲しいストーリーや音に身を寄せて震える。そうして何かを捨て去った(或いはフリをして)明日をやっと迎えている。

 

読んだときには「これは精神的にヤバいタイプの小説だ!」とは思わないだろうが、読後にその遅効性の毒が効いてくる。見た目に美しい涼やかな水を飲んだそのつもりで、それは実は毒だった。そういった小説を読んだ事があるでしょう。

この「素数たちの孤独」は、その筆頭に躍り出んとするパオロ・ジョルダーノのデビュー作である。なんか憂鬱なあなたは、もっと憂鬱になりたいだろう。もっと堕ちたいだろう。じゃあ、コレだ。この小説を読もう。どうしようもない感情を抱いて今日を生きるあなたには、きっとコレが必要なのだから。